2006年05月12日

パイロット会社案内 その25

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 万年筆全盛時代のパイロット社の状況。主として昭和24年から昭和37年までをあらわしている。資本金は500万円から5億円と100倍増。これは生産設備の拡張の為に資金が必要だった為と思われる。特に平塚工場用かな?

 従業員は500人程度から2300人へ4.6倍増じゃ。昭和37年の万年筆製造能力は月産100万本と書かれている。もしも一本の万年筆が10年間使えて、それがだめになったら次の一本を買うという前提で考えれば、パイロット一社で1億2000万人分の万年筆を作っていたことになる。

 経営陣の名簿には【和田】姓が5人、【並木】姓が1人いる。このうち何人かは創業者である和田家、並木家の直系じゃろうな。

 一番右の組織図で特徴的なのは【研究部】という表現。現在では【研究所】という名称で別会社、あるいは本社とは独立した自治組織であるケースが多いが、パイロット社では【研究部】という本社のスタッフ機構にある部だったのかもしれない。ただし内部に総務課を持っているので【研究所】のような独立した組織だった可能性もあるがな。

 研究部内の研究室組織が興味深い。化学分析室、化学研究室などはGűnther Wagner社と同じ雰囲気がある。インク製造をしている証拠じゃ。表面処理研究所は通常は鍍金などであろうが、ひょっとすると【漆塗り】なんてのは表面処理の一部と考えられていたのかもしれない。電気研究室は工場のラインの設備関係の研究かな。鍍金やイリジウムを金に取り付ける過程では電気が大きな役割を果たすのできっとここで研究されていたはず。

 それ以外の商品研究課と製品研究課の違いはよくわからない。邪推すれば【商品研究】とは一般消費者の手に渡る消費財(万年筆など)の商品化研究で、【製品研究】とはOEMで出荷していた部品や海外関連会社向けの製造機械、あるいは万年筆以外の素材(メタルビーなど)の研究をしていたのかも知れない。



Posted by pelikan_1931 at 07:00│Comments(6) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Blog紹介 
この記事へのコメント
本社、大塚、志村の7割が焼失したそうじゃから、志村は比較的被害が少なかったのかもしれんな。そのあたりは後日、社史で調べてみよう。
Posted by pelikan_1931 at 2006年05月14日 16:43
昭和20年の8月(終戦の月)に既に志村工場で生産を開始したようです。機械は焼け残っていたのですね。
Posted by 並木良輔 at 2006年05月14日 16:35
創業時の企業理念の重要性の証明が出来ましたな。
Posted by pelikan_1931 at 2006年05月14日 11:56
戦後の急成長の時代。何を作っても売れるという時代にこそ『作る人、売る人、利用する人の全てが幸せにならないと経営は成り立たない』という経営理念を貫いたからこそ、現在まで存続出来る会社になったのでしょうね。けっして粗製濫造にならなかったのは流石です。
Posted by 並木良輔 at 2006年05月14日 10:40
並木製作所設立の資金や開発費用は和田氏が出したと思われる。大株主じゃったから、その後の主導権も和田家に引き継がれていったのじゃろう。
Posted by pelikan_1931 at 2006年05月12日 22:54
並木良輔氏の技術で確立されたパイロット/NAMIKIブランドですが、この当時は会社の実権は和田家が握っていたのですね。貴重な資料です。
Posted by 並木良輔 at 2006年05月12日 22:29