2009年09月03日

【Pelikan Red Book】 その4

2009-09-03 012009-09-03 02 今回紹介するのは、12頁〜14頁まで。拡大したのは、ギュンター・ヴァーグナー家の紋章のペリカン鳥部分。

 母親ペリカンは3匹の子供を育てている。そしてお腹のすいた子ペリカンに、自分の胸の肉を、くちばしで割いて与えている。

 母親の強い愛情を象徴した家紋と聞いたことがある。そのあたりのいきさつがドイツ語で書かれていそうなので、attempto(1477番)しゃん、よろしく!

 我々は安易に【目つきの悪いペリカン】などと読んでいたのだが、自分の肉を割いているのなら、苦悶の表情だったのかもしれない。悪口言ってごめんなさい・・・

2009-09-03 03 どうやら左がPelikan社のロゴの推移らしい。1878年のロゴでは、子ペリカンは4匹。親ペリカンは胸の肉を割いてはいるが、表情は穏やかで、血も飛び散ってはいない。

 ところが、1910年のロゴを見ると、目つきが悪くなって、血が飛び散っている。子ペリカンは4匹のまま。

 1922年のロゴは一番有名なもの。1929年にPelikan製の萬年筆が発売された時のロゴ。1931トレドの復刻版のロゴとおなじじゃ。ここでは目つきはいっそう険しくなるが、血は飛び散っていない。また子ペリカンは4匹のまま。かなりシンボル化されてきている。

 創立100周年の1938年の大幅にロゴを変えている。いわゆる黒ペリカンと呼ばれるもの。母ペリカンも巣も大幅にシンボル化されているが、一番の変化は子ペリカンが4匹から2匹になったこと。

 同一のデザインで白黒が逆転したのが1962年だが、キャップトップの彫りは線画なので変化は見られなかった(はず)。旧M800のキャップトップは、金色プレートに黒ペリカンなので、どちらかといえば、1961年以前のデザインといったほうが良いかも。どうやら1962年からのロゴは、変化というよりもバリエーションが増えたといったほうが良いのかも知れない。

2009-09-03 04 さて、この頁だが、何が書いてあるのか想像が出来ない。ここは、attempto(1477番)しゃんからのコメントを待つとしよう。ヨロシク!

☆☆ ここからがattempto(1477番)しゃんからのコメントから転記したものじゃ!

 昨日は日中に時間がなく、夕方からは楽天・西武戦へ。試合後には飲み屋へ流れて、記事を読む時間がありませんでした。ちなみに、一緒に観戦した友人の次男坊に高校入学祝いとしてラミー・サファリをプレゼント。万年筆に目覚めてくれると良いなあ。

 さて、今回は1878年に導入されたペリカン商標と宣伝についてですね。抄訳を以下に記します。

 会社設立の19世紀前半には製品を外国で販売するのは困難で、絵の具市場はフランス、とくにイギリス製品に席巻されていました。1887年以後、あらゆるドイツ製品に表示しなければならなかった Made in Germany は品質保証ではなく、イギリスの工業製品を粗悪なドイツの模倣品から守るためでした(!)。ハノーファー王国はイギリスと長く同君連合であったため、当初カール・ホルネマンは製品を英語名で販売しています。これが禁止された後は、製品に満足した顧客の声を記載することが宣伝の中心でした。

 1869年の営業条例で営業の自由が確立し、1871年にドイツ帝国が成立すると、ドイツ商工業は飛躍的に発展します。他方で、ヴァーグナーにとっても数多くの競合社があらわれ、はっきりとしたコーポレート・アイデンティティを打ち出す必要が生じます。それが1878年11月28日にハノーファー簡易裁判所に登録されたペリカン商標でした。

 ヴァーグナー家の紋章(1頁目中央)でもあった親ペリカンと3羽の子ペリカンのモチーフは、中世以来、キリスト教的な自己犠牲と隣人愛を示すものとして教会堂建築などに頻繁に見られ、決してエキゾチックなものではありませんでした。1頁目左下の写真は、ある修道院の天井部分にアーチ装飾として描かれたペリカンの親子です。

 ペリカンマークと同時に、Pelikanがブランド名として導入され、製品に表示されることになりました。こうしてヴァーグナーは商標を宣伝に利用した最初の経営者の一人となります。2頁目右下の大きめの図は実際には使用されなかったデザイン、上に並ぶのが1878年以降のペリカン商標とロゴデザインの変遷です。

 最後の頁にある二つの画像は、当時の商工業者にとって最大の宣伝の舞台であった商工業展覧会(ベルリン、1896年)でのギュンター・ヴァーグナーへの銀メダルと表彰状です。こうした表彰なども宣伝目的にあらゆる商品ラベル、価格表、パンフレットに記載され、1903年に設置された「プロパガンダ」部門が向後それらを一手に取り仕切ることになります。

 おっと、肝心のペリカンの話を端折ってしまいましたので、付け加えておきます。

 親ペリカンが自分の胸を引き裂き与えているのは肉ではなく、血です。死んでしまった雛たちに自らの血を与えて蘇らせるというエピソードは、キリストの血による罪の許しと蘇りというキリスト教の根本的思想のメタファーとなっており、初期キリスト教のギリシャ語教本『フィシオロゴス』を通じてヨーロッパに伝えられました(http://en.wikipedia.org/wiki/Physiologus)。

 雛の数が紋章では3羽、ペリカン社の初期の商標では4羽、あとで2羽となっている理由までは本文には書かれていません。


Posted by pelikan_1931 at 07:00│Comments(3) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック カタログ紹介 
この記事へのコメント
おっと、肝心のペリカンの話を端折ってしまいましたので、付け加えておきます。

親ペリカンが自分の胸を引き裂き与えているのは肉ではなく、血です。死んでしまった雛たちに自らの血を与えて蘇らせるというエピソードは、キリストの血による罪の許しと蘇りというキリスト教の根本的思想のメタファーとなっており、初期キリスト教のギリシャ語教本『フィシオロゴス』を通じてヨーロッパに伝えられました(http://en.wikipedia.org/wiki/Physiologus)。

雛の数が紋章では3羽、ペリカン社の初期の商標では4羽、あとで2羽となっている理由までは本文には書かれていません。

Posted by 1477 at 2009年09月04日 17:50
(つづき)ヴァーグナー家の紋章(1頁目中央)でもあった親ペリカンと3羽の子ペリカンのモチーフは、中世以来、キリスト教的な自己犠牲と隣人愛を示すものとして教会堂建築などに頻繁に見られ、決してエキゾチックなものではありませんでした。1頁目左下の写真は、ある修道院の天井部分にアーチ装飾として描かれたペリカンの親子です。

ペリカンマークと同時に、Pelikanがブランド名として導入され、製品に表示されることになりました。こうしてヴァーグナーは商標を宣伝に利用した最初の経営者の一人となります。2頁目右下の大きめの図は実際には使用されなかったデザイン、上に並ぶのが1878年以降のペリカン商標とロゴデザインの変遷です。

最後の頁にある二つの画像は、当時の商工業者にとって最大の宣伝の舞台であった商工業展覧会(ベルリン、1896年)でのギュンター・ヴァーグナーへの銀メダルと表彰状です。こうした表彰なども宣伝目的にあらゆる商品ラベル、価格表、パンフレットに記載され、1903年に設置された「プロパガンダ」部門が向後それらを一手に取り仕切ることになります。

また来週を楽しみにしています。では。
Posted by 1477 at 2009年09月04日 12:27
昨日は日中に時間がなく、夕方からは楽天・西武戦へ。試合後には飲み屋へ流れて、記事を読む時間がありませんでした。ちなみに、一緒に観戦した友人の次男坊に高校入学祝いとしてラミー・サファリをプレゼント。万年筆に目覚めてくれると良いなあ。

さて、今回は1878年に導入されたペリカン商標と宣伝についてですね。抄訳を以下に記します。

会社設立の19世紀前半には製品を外国で販売するのは困難で、絵の具市場はフランス、とくにイギリス製品に席巻されていました。1887年以後、あらゆるドイツ製品に表示しなければならなかった Made in Germany は品質保証ではなく、イギリスの工業製品を粗悪なドイツの模倣品から守るためでした(!)。ハノーファー王国はイギリスと長く同君連合であったため、当初カール・ホルネマンは製品を英語名で販売しています。これが禁止された後は、製品に満足した顧客の声を記載することが宣伝の中心でした。

1869年の営業条例で営業の自由が確立し、1871年にドイツ帝国が成立すると、ドイツ商工業は飛躍的に発展します。他方で、ヴァーグナーにとっても数多くの競合社があらわれ、はっきりとしたコーポレート・アイデンティティを打ち出す必要が生じます。それが1878年11月28日にハノーファー簡易裁判所に登録されたペリカン商標でした。(つづく)
Posted by 1477 at 2009年09月04日 12:25