たこ娘さんが代官山のLichtope新店舗に移ったので、万年筆談話室のレイアウト変更をすべく掃除していたら、ずいぶん昔の資料が出てきた。
ルービック・キューブを発売したツクダオリジナルが、解法を見つけた人にキュービストの賞状を送るという噂を聞いて解法をまとめて送った際の資料。
送った写真には8人写っているが実際に自力で解法を見つけたのは6人。
実は、ツクダオリジナルがルービックキューブを売り出す前に6人は解法を見つけていた。
スタンフォード大学に社会人留学していた吉田くんが米国ではやっていたと2個買ってきたキューブを各自1週間ずつ借りて解法を見つけたのだ。
米国ではルービックス・マジックキューブという名称で売られてたそうなので、会の名前は【マジックキューブ同好会】となっていた。
キュービストの称号をもらうには、6面そろった写真を送るのが条件だったが、新しいのを買って送れればそれらしくみえるので・・・
【マジックキューブ同好会】の威信をかけて解法集をまとめたのだ。
当時、拙者は解法にかかる時間は圧倒的に短かったのだが・・・
まったくリーダーシップがないのと、まとめるのが下手だったので前列右側の2人が中心となってまとめた。
しかし拙者が一番の目立ちたがりだったので、雑誌やTVの取材は全て拙者が受けた。第一回(しかなかった)ルービックキューブ選手権?にも出た。
解法集をつけて提出したのは我々だけだったらしく、ツクダオリジナルへの取材依頼の多くが回されてきた。
女性週刊誌は全てから取材を受けたが、この微笑の取材が一番印象に残っている。
女性記者だったが、ロジックが理解できずに何度も会社にいらっしゃったのだが、皆が振り返るような美人だったのだとか。
拙者は女性の顔をまともに見れなかったので、あとで聞いてしまったぁ〜と思った。
実は、びっくりしたのは、この高須クリニックの広告。
女性の性について開けっぴろげに語るのが評判の微笑に高須クリニックが広告を出すのは不思議でも何でもないが・・・
当時高須さんは35歳。それで病院を2つも持っていたのは凄いなぁ〜と今になって感心している。古い雑誌はコマーシャルも面白い!
記事の中で〔最初は完成に30時間かかりましたよ〕は真実。借りた日から【出来るまで会社に来ません】という休暇届を出した。
最初の30時間は一日10時間くらいやってたので3日目。そこから何度でも再現できるようになるにはさらに3日かかった。で予定通り1週間で返却成功した。
しかし、新聞は酷かった。会社に電話してきて10分くらいお昼休みにヒアリングして・・・
翌日には読売新聞に掲載されてしまった。会社名が出たため、広報部から部長宛に問合せが来て、部長室に呼び出された。他部門から来た超厳しい部長。
【私はヤクザの齋藤と呼ばれてます、以上!】とだけ挨拶された怖い部長。
てっきり怒られるのかと左のような言い訳を考えて言ったのだが、部長室に入ると、部長がビデオを回し、キューブを渡され解いてみせろという。
意味もわからず解いてみせ、理由を聞くと・・・【息子におれの部に解けるやつがいるといったら、嘘だ!それならビデオを撮って見せてよといったからだ】とか。
その後、日本でも発売され何個も苦労して入手したが、最初は香港製だった。それは実に手に馴染んで良い感じだった。
ところが、ツクダオリジナルが日本で製造を始めると、中空の樹脂素材で作ったので、素早く回そうとすると上手くいかない。
今になって考えれば、No.149も時代と共にコストカットが進み、残念な状態になっていったのだが、この1980年時点で既に拙者はその気持ちを感じていたのだな。
まだワープロもろくに無い時代だったので、社内用グラフ用紙にボールペンと色鉛筆で解法を記録していった。
数えてみると、30枚ほどあった。そしてそれを全て暗記してた。
今でも3X3X3のキューブなら2分もあれば解けるが、当時の最高は21秒だった。今の世界記録は6秒くらいかな?
ただ我々の時代は、後ろ手に持って回したキューブをスタートと同時に前で見て、状況把握してから解き始めた。
今のやり方はキューブの状態を十分に確認し、頭の中で詰めてから専用テーブルに置く。詰めるのに必要な時間はほんの数秒だろう。
そしてテーブルからキューブを持ち上げると同時にタイマーがスタート。置くと同時にタイマーが止まる。勝負は100分の1秒単位らしい?
将棋と同じく、AIで新たな手数の少ないパターンを見つけ、それを活用する事もあるそうだ。
あと片足で解くとかの正式記録もあるようだ。拙者はハンデ戦で1回だけ片手でやったが3分10秒という記録で惨敗だった。(ノートに記録が書いてあった)
こちらはTBSのニュースコープで取材が決まった時の案内状。
消してあるが当時のディレクター名も書いてあった。名刺交換して気づいたが、拙者と同じ学部の3〜4年後輩だった。
この後、TBSの報道で活躍し、局長・執行役員にまで出世したようだ。
今回古い記録を読んで一番懐かしかったのはこちら。
取材された記事の裏ページなのだが、ローライA110の写真がある。これ欲しかったんだなぁ・・・
ただ、当時は既にカメラは6X6とか6X9とかに行っていたので、110フィルムは使う気になれなかった。でも形は大好きだった。
今から15年くらい前に突如欲しくなって、これを4〜5台、いろんなアクセサリーと共に集めたが・・・
フィルムが無いのですぐに飽きて、何故かペントレで売ってしまった。忘れていたが、この記事を見てまたぞろ虫がうずいてきた。
本日の記事、3時間かけて書いたが、久々の長編になった。