通常、依頼主の書き癖を把握するには、5秒も書いてもらえば判る。
もちろん個人の書き癖にピッタリフィットするような高度な調整の場合には、もっと時間が必要。
ドバドバのインクフローで何行も縦書きで一気に書く人がいる。こういう場合は2行目に入ってもインクは乾いていない。従って手の位置はそのままで、ペンを1行分押し出すようにして書く。これを4行目くらいまで押し出しながら書く・・・行ごとに、どんどん後ろの方を持って書くわけじゃ。
はたまた縦書きで、手の腹を紙に固定したまま、行の上の方を書くときにはペンを寝かせ後ろの方を持ち、だんだんとペンを起こしながら首軸側を持つようにして下の方を書く人もいる。こういう人にとっては、鉛筆が最高の筆記具であり、油性ボールペンが最悪の筆記具じゃろうな。
上記2例のような事例(いずれも縦書き)があるので、縦書きの人の調整には注意しておる。元来万年筆が発明された時点では、縦書きなど想定外。それを日本のメーカーが苦労して縦書きも出来るように研ぎを工夫して来た・・・
従って独逸製万年筆の調整では、通常横書きを前提としている。その場合、左利きでも無ければ、握る位置、筆記角度、筆圧、指の位置(握り方)が判ればOK! その把握には5秒もあれば十分(じゅうぶん)というわけじゃ。
ところが今回は、書き癖の把握に1時間ほどかかった。縦書きだったこともあるが、持ち方も書き方も特殊!
まずは机の上に羅紗布を敷く。その上に原稿用紙を1枚だけ乗せる。おもむろに万年筆のキャップを外して尻軸に嵌め、キャップ部分を手で挟み、ペンを垂直に立てて、筆圧ゼロで紙に当てて書き始める・・・
そう、依頼者は書家なのじゃ。羅紗布というクッションの上にそっと載った原稿用紙に筆圧ゼロで筆を当てる・・・やってみると面白いが、極細以外のペン先ではほとんどインクが付かない。
しかも依頼者は、書き出しは細く、ハネやハライの際にはぐわっと太くなるような字幅をご所望。
拙者は小学校卒業後、筆ペンすら握った事はない。従ってどれが良い書き方かわからないが、1時間ほどお付き合いしているうちに、おぼろげながら判ってきた。
依頼者にはオノト両ベロの超長い軸が最もおすすめ。柔らかくてもブルドックのような太い軸では書きにくいが、筆よりは太くないと万年筆を使う意味が無い。M1000あたりを日常的には使っているということじゃった。
依頼品はPelikan 100。拙者も昔は良く調整したものじゃが、最近は遭遇する事が少なくなったなぁ・・・と調べてみたら、拙者の調整報告の中ではPelikan 100は初登場!Pelikan 100Nも過去に一本しか報告していない。
100や100Nシリーズは自分で特殊器具無しで分解できる為、軸内部でインクが固まった場合の対処が簡単とか、ペン先がソケット毎外れるので問題が発生しにくいのかもしれないな。
当初付いていたのが上のペン先。悪くは無いのだが、書家からみれば今一歩ということらしい。ペン芯の位置、スリットの具合ともパーフェクトなので、ペン先の素質が要件を満たしていないと言える。
一応全て分解して不具合が無いかどうか確認してみたが、コルクの不具合も無く、パーフェクト。特にインク窓の綺麗さには驚かされる。
ペン先が2本あるが、これは必要ならペン先を交換して欲しいと持ち込まれたものじゃ。万年筆には素人の書家がスペアのペン先を用意して持ち込むはずはなく、WAGNER会員が同行しての依頼。
上が元々付いていたペン先で、下が交換用に持ち込まれたもの。交換用として持ち込まれた方のイリジウムは激しく磨耗しているが、書家の筆圧なら今後100年くらいは問題なく使えそうじゃな。
刻印がまったく違うが、これは製造の年代が違うのか、付いていたモデルが違うのか、製造した工場が違うのか・・・拙者は知らんので知っている人がいたら教えて欲しい。
試してみると、たしかに代替品の方が柔らかい。どうやらペン先自体が薄いようじゃ。戦前の物なので、ある程度は個体差があったのかもしれない。
ソケットに取り付ける際も、専用の工具を使った。ペン先が薄いので指で捻ればその段階で調整が狂う可能性もある。絶対にソケットを外してはならないという事を申し添えて渡さねばならないと考えておる。
万年筆なんてのは多少粗雑な扱いをしても、そうそう壊れるものではない。現代の物は!
しかし軸やペン芯が劣化したり痩せたりしているようなVntage万年筆の場合はその限りではない。1930年生まれといえば77歳じゃ。足腰や内臓に不具合が出てくるのが当然!
年取った老人を扱うがごとくにVintage万年筆に接する必要がある。強筆圧でゴリゴリ書く際には現行品を用い、Vintage品で書く際にはフェザータッチで!・・・これが出来るだけ長くVintage万年筆を後世の人にまで利用していただける策の一つじゃ。
書き出しは細く!ということで書き出しの調整は掠れが少ない事の一点に絞った。エッジがある書き出しでないと依頼者は満足しないじゃろう。従ってスリットは通常調整よりも詰めてある。詰めても書き出しで掠れないというのは神業調整。しかも通常の筆圧ゼロではなく、羅紗布の上に置いた一枚の原稿用紙の上での筆圧ゼロ!
【羽毛で押しても凹む】のが羅紗布上原稿用紙の感触・・・イリジウムをラッピング・フィルムなんぞで舐めたら一切インクは紙に付かない。
こちらが横顔。ハネやハライの際の、極限まで強い筆圧をかけた際にもインクが追随するよう、ペン芯を下げた。逆のように感じるかもしれないが、ペン先のポンプ運動でちゃんとインクは送り出されてくる。
あまり首軸に突っ込むとペン先がしならないので、さらに筆圧をかけ、ペン先がペン芯から極端に浮き上がってしまう。そうするとインクが途切れる!ペン先が横に開く分にはインクはポンプ運動で供給されるのじゃ。
インクを入れて書いてみる・・・多少筆圧をかけて、ものすごい速さの横線を書いてみる。キュイーン!という筆記音とともにインクの飛沫が紙に飛び散る。思わずにっこり!このペン先に対して出来ることは全てやった。あとは依頼者がこれを気に入るかどうかじゃ。
もし気に入らないとしたら、それは拙者の調整能力の限界ではなく、このペン先の持つ能力の限界!引き出せる力は全て引き出せてあげたはず。
近々、この書家用の更なる【驚き調整】をお目にかけよう!
【 今回の調整+執筆時間:4.0時間 】 分解&画像処理1.0h 調整1.5h 執筆1.5h
画像準備とは分解し機構系の修理や仕上げ(磨きなど)をする作業、及び、
画像をスキャナーでPhotoshopLEに取り込み、向きや色を調整して、Blogに貼り付ける作業の合計時間
調整とはペンポイントの調整をしている時間
執筆とは記事を書いている時間