2009年10月22日

【Pelikan Red Book】 その11

2009-10-22 01 今回は39頁から21頁までの紹介。写真が一番充実しているのではないかな?大好きな4頁じゃ。

 最初は1951年の写真。おそらくは本社の敷地内にあるペリカン池のペリカンであろう。金網が張ってあるが低いので手をさしのべている人もいる。

 ペリカンは羽を間引いて飛べないようにしているのかもしれない。周囲に群がっている人の中に子供はいないので、従業員が休み時間に盛り上がっているのかも知れない。

解説文にはもっと面白いことが書かれていそう。attempto(1477番)しゃんに補足説明をお願いしたい。よろしくおねがいしま〜す!

2009-10-22 02 40頁は萬年筆生産をしている部屋の様子。これは今までの社史などには無かった貴重な物。モーターがあり、胴軸だけが大量に机の上に立てられているところを見ると、軸のバフかけをしている場面かも知れない。

 撮影されたのは1950年。拙者が生まれる2年前か・・・

 作業をしているのは、比較的若い女性ばかりで、監督官を年配の男性がやっている。ルーペで仕上がりを確認しているようじゃ。このように、製造プロセス途中で検査をしておけば、不具合があれば作業者もその場で特定できる。これがペリカンの品質を支えていた秘密だったのかも知れない。

 下の写真はペリカンの2両連結のトラック。これが萬年筆だけの一回の出荷単位だとすれば恐ろしい本数を出荷していた事になる。おそらくは他の商品と一緒に運搬したトラックのボディに、ブランドの象徴としての萬年筆が描かれていただけであろう。

 この写真はアオリ機構のある4x5のカメラで撮影されたのではないかな?屋根の方まで建物の幅が変わっていない。柔らかくて良い仕上がりの写真!

2009-10-22 032009-10-22 04 こちらの2枚は、戦後の筆記具の展示。ペリカン・スタンドなんてショールームがあったのかもしれない。

 それにしてもずいぶんと幅広い商品を作っていたのだと驚いた。ゲーム板も作っていたとはな。

 かなり子供をターゲットとした商品もあったらしい。ペリカーノでブランドを子供にすり込んで、身近な絵描き道具、ゲーム・・・ときて、萬年筆を売り、最後はオフィス用機器(印刷装置、プリンターリボン)などを売る戦略だったのか?そういえばインクジェットプリンターのインク製造で訴えられ敗訴した事もあったはず。

 いずれにせよ製品の幅を拡げすぎたのが経営が傾むいた原因なのは間違いはあるまい。今では製品ラインを絞り込んでいる。選択と集中を早い段階でやって企業再生(アジア資本による救済買収?)を成し遂げたのは立派じゃ。


☆☆ ここからがattempto(1477番)しゃんからのコメントから転記したものじゃ!

最初の頁の写真は、ご指摘通り、1934年以来敷地にあるペリカン池の前に集まった女性社員たちだそうです。ペリカンはペアで飼われていたらしいですね(1988年に4代目ペア)。それにしても、次の万年筆生産工程も含め、女性従業員の写真ばかりですね。偶然なのか、実際に女性が多かったのか・・・。さて、全体のテーマは、戦後の復興期から、「一生、ペリカン!」をスローガンとしてすべての年齢層に合わせた製品ラインを揃えようとしていた時代についてです。
ハノーファーで輸出メッセが開かれた1948年、400シリーズ万年筆が発売された1950年にはペリカン社は戦前の勢いを取り戻し、1955年には戦後没収された外国の工場・営業所の買い戻しを(東欧を除いて)開始。子供の筆記学習プロセスに合わせた子供用万年筆ペリカーノを1960年に発表し、20年間で6000万本を売り上げる大ヒットに。1972年にはインク消しペン「インク・タイガー」も発売。

「一生、ペリカンと」というスローガンのもと、あらゆる年齢層とあらゆる活動にあわせた製品の提供が当時の戦略でした。幼稚園ではクレヨンやゴム粘土で遊び、小学校ではペリカーノで書き、ティーンエージャーには1973年発売のハッピーペン、親は高価なペンセットを贈り物にするといった具合。時代状況に合わせて、1978年にはコピー機メーカーすら買収します。さらに1972年にはゲーム・パズル部門に進出し、家族向けボードゲームまで発売するも、さすがにうまくいかずに1982年には早々と撤退したとのこと。
それにしてもペリカン・ブランドのゲームがあったとは・・・ドイツ人は大人も子供もボードゲーム好きで、家庭だけでなく喫茶店や飲み屋にもゲームが置いてあり、ビールやコーヒーを片手に興ずる。まあ、ドイツでも最近はwiiなんでしょうけど・・・。
42頁の写真はショーウィンドーのデコレーション。ショーウィンドー・サービスという部署があり、陳列モデルを作成するスタジオがあったそうです。43頁上は当時の万年筆など(インクボトルの包装箱はバウハウス出身のWilhelm Wagenfeldがデザイン)。下は1963年、ハノーファーでのドイツ産業メッセでペリカン・スタンドを訪れた経済大臣ルードヴィヒ・エアハルト、このあとすぐに連邦首相に就任します。以上、こんなところで。ではまた。



Posted by pelikan_1931 at 07:00│Comments(4) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 文献研究 
この記事へのコメント
先日書いたtwitterを使って、
Pelikaの中の人がなにやら つぶやいています。

pelikan_company http://twitter.com/pelikan_company
pelikan_de http://twitter.com/pelikan_de
Posted by stylustip@136番 at 2009年10月24日 17:40
attempto しゃん

ありがとしゃん。本文に入れておきました。
Posted by pelikan_1931 at 2009年10月23日 04:18
(つづき)「一生、ペリカンと」というスローガンのもと、あらゆる年齢層とあらゆる活動にあわせた製品の提供が当時の戦略でした。幼稚園ではクレヨンやゴム粘土で遊び、小学校ではペリカーノで書き、ティーンエージャーには1973年発売のハッピーペン、親は高価なペンセットを贈り物にするといった具合。時代状況に合わせて、1978年にはコピー機メーカーすら買収します。さらに1972年にはゲーム・パズル部門に進出し、家族向けボードゲームまで発売するも、さすがにうまくいかずに1982年には早々と撤退したとのこと。
それにしてもペリカン・ブランドのゲームがあったとは・・・ドイツ人は大人も子供もボードゲーム好きで、家庭だけでなく喫茶店や飲み屋にもゲームが置いてあり、ビールやコーヒーを片手に興ずる。まあ、ドイツでも最近はwiiなんでしょうけど・・・。
42頁の写真はショーウィンドーのデコレーション。ショーウィンドー・サービスという部署があり、陳列モデルを作成するスタジオがあったそうです。43頁上は当時の万年筆など(インクボトルの包装箱はバウハウス出身のWilhelm Wagenfeldがデザイン)。下は1963年、ハノーファーでのドイツ産業メッセでペリカン・スタンドを訪れた経済大臣ルードヴィヒ・エアハルト、このあとすぐに連邦首相に就任します。以上、こんなところで。ではまた。
Posted by attempto (1477です) at 2009年10月22日 15:49
こんにちは。
最初の頁の写真は、ご指摘通り、1934年以来敷地にあるペリカン池の前に集まった女性社員たちだそうです。ペリカンはペアで飼われていたらしいですね(1988年に4代目ペア)。それにしても、次の万年筆生産工程も含め、女性従業員の写真ばかりですね。偶然なのか、実際に女性が多かったのか・・・。さて、全体のテーマは、戦後の復興期から、「一生、ペリカン!」をスローガンとしてすべての年齢層に合わせた製品ラインを揃えようとしていた時代についてです。
ハノーファーで輸出メッセが開かれた1948年、400シリーズ万年筆が発売された1950年にはペリカン社は戦前の勢いを取り戻し、1955年には戦後没収された外国の工場・営業所の買い戻しを(東欧を除いて)開始。子供の筆記学習プロセスに合わせた子供用万年筆ペリカーノを1960年に発表し、20年間で6000万本を売り上げる大ヒットに。1972年にはインク消しペン「インク・タイガー」も発売。(つづく)
Posted by attempto (1477です) at 2009年10月22日 15:21